ひかりの遭難

すずめ・二十四才・会社員・女

幸福でいる覚悟はできてるか(/私たちは自分を愛する権利があるよ)

老人たちは公園でペタンクをやり、テニスコートで子供と親たちは走り回ってて、若いカップルは仲良く川添いのベンチでくつろぎいでいて、道のすれ違い際で立ち止まって話を交わしてる人々がいる。ふつうにいる。ああこれが人生じゃん。人生ってこれじゃん。と、留学中の土地でなまみの人の生活というのを初めて見たような気がして、これまでにない居心地のよさを感じたことを思い出す。

 

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生活を彩りたのしむ人々を見ると、揶揄したり小馬鹿にするふしがわりと多くあると思うのだけど、一体その精神が多く発生するのは一体、いつからなんだろうか。生活というのは日々に追われて消耗すること、いい会社に入ってお金を稼いで家を持つことが人生の頂点であって、そこまでの道のりには個性の受け売りや人間関係のごちゃつきがあって、生きるのは結局は辛いことが多いというのがこの世の常であるのだという価値観が私たちに呪いのようにつきまとっていて、それと共にいることが正常であるとされているのはなんでだろう。ゆっくりとそれぞれがそれぞれのペースで自然体でいることがこんなにも困難であるのはなんでだろう?いつも身なりや行動の目的が完全なものでいる必要があるのはなんで。

 

もっと人それぞれが自分の考えや感覚に正直に生きることができればいいのになと思う。まずはコントロール能力を意識して培うべきなのだと思うけどそれには割と限度もある、というのもそれは外部(環境)要因は個人では変えられないことがほとんどであるからだ。しかもそれは国の文化や古くからその土地に住む人間に定着している価値観や宗教なので割と厄介なんだよな。とはいえこのままにするわけにもいかないと思うので、人を束ねたりする政治家や人々のアイドル(偶像)的存在となりうる芸能人などの意識改革・そこからの表現活動/意思表明が重要になってくるのではないかと思う。それってまさにプロパガンダじゃない?きっとそう。身近なものでいい例はkemioかなあ。『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』はめちゃくちゃいい影響を与えうる本である気がする。みんな読んだ?

 

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言葉を知ると言葉に付随する意味をひとつの価値観として体にインストールすることになるので(たとえば「い・ぬ」という言葉を知ると、大抵ふさふさの体毛に覆われた1m弱の四足歩行の哺乳類という生物群に属する生き物が世界に存在することを知る。)、知らない言葉や流行りの言葉には警戒している節がある。そのなかのひとつに「マウントを取る」という言葉があります。

 

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はなしはもどるときっと自分に余裕がないから人の幸福を受け入れられなかったり意地悪したり人に当たったりするわけで、じゃあ自分に余裕がないっていうのはどういうとことなのかというと自己愛(/自己肯定感)が足りないというのが根本にあるのではないかとおもう。(だからわたしは自分の近いところにいる人には自己愛を持ってもらえるようにできるかぎりその人を肯定したりご機嫌を取ったりしている)でそこで厄介なのは私たちを取り巻く環境(国なのか地域なのか・・)において自己愛をもつことにネガティブなイメージが私たちの精神の土壌としてあることだと思う。それがセルフラブを邪魔してる。(あなたは悪くない。)その先に他者への不寛容が生まれてる。じゃあその自己愛にネガティブなイメージがついてしまったのはなんでなんだろうか?戦時中のか?儒教の考えからからの影響か?

 

などなどと自己肯定感について考えてるとこんなページを見つけて、日本と他国のこどもの自己肯定感の高低差が数値として如実に現れており、ああやっぱり。となる。悲しいのは、自己肯定感の低さは子どもの時からであるということ。せめて子どものうちだけは、自分はだれにもじゃまされることのない、ゆずることのない存在意義があるとおもっていてほしかった。と言えるほど私自身だいぶ小さい頃から自分のことが好きではなかった。二十四才のいまはだいぶん意識改革の甲斐がありだいぶんよくなってきている。

 

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