ひかりの遭難

すずめ・二十四才・会社員・女

20210606夕方

 

せまりくる死の恐怖、死の恐怖はいつだってとなりにいるんだと、息をするたびに考えてしまう今日。

最近首回りの気道がせまいようなそんな違和感がある。しかし鼻から吸えば大丈夫、でも、ただ、意識的に鼻から息を吸うというのは1日の体力を大幅に使うような気がして、しんどい。息?

 

死への恐怖なんてものはこの電車に乗っている人の85パーセントくらいの人々は想像しうるであろうありふれた感情である。(恐怖を感じるか否かは別とし、その存在を想像できるか否か)。けれども、わたしがここで口を大にして言いたいのは、恐怖の本質というのは、人はいつだって死ねるんだということ、そしてたいていいつ死ぬのか、何によって死ぬのかがわからないという、ありすぎるわからなさのこと。

 

今日みたいに調子の悪い日だと、死ぬ時をえらべないのならばいっそじぶんでえらぶべく自死するのもひとつの選択かもしれないと考える。でも、自分の周りにいる家族や恋人、友人からすれば自然な死と自死など非自然な死というのには天と地ほどに大きな差があることが容易に想像できてそれはしないと誓ったりする。

 

でもいまのご時世、コロナウイルスという死の可能性を加速度的にあげているものがあり、そのウイルスに感染した場合発熱が続いた場合の死ぬ確率は何%、20代の死亡率はナンパーセント、といったふうに死のわからなさというのは少々緩和されているという状況。でも昨日喫茶店の隣の席で談笑していた女の子二人、どうやら医療従事者らしく、彼女たちは口を揃えて言っていたのは「コロナよりも肺炎の方がぶっちゃけ怖いよね、(ワクチン)打っといた方が絶対いいよぅ」。

 

やっぱり知らないところに死はひっそりと潜んでてこわい。

幸福でいる覚悟はできてるか(/私たちは自分を愛する権利があるよ)

老人たちは公園でペタンクをやり、テニスコートで子供と親たちは走り回ってて、若いカップルは仲良く川添いのベンチでくつろぎいでいて、道のすれ違い際で立ち止まって話を交わしてる人々がいる。ふつうにいる。ああこれが人生じゃん。人生ってこれじゃん。と、留学中の土地でなまみの人の生活というのを初めて見たような気がして、これまでにない居心地のよさを感じたことを思い出す。

 

+++

 

生活を彩りたのしむ人々を見ると、揶揄したり小馬鹿にするふしがわりと多くあると思うのだけど、一体その精神が多く発生するのは一体、いつからなんだろうか。生活というのは日々に追われて消耗すること、いい会社に入ってお金を稼いで家を持つことが人生の頂点であって、そこまでの道のりには個性の受け売りや人間関係のごちゃつきがあって、生きるのは結局は辛いことが多いというのがこの世の常であるのだという価値観が私たちに呪いのようにつきまとっていて、それと共にいることが正常であるとされているのはなんでだろう。ゆっくりとそれぞれがそれぞれのペースで自然体でいることがこんなにも困難であるのはなんでだろう?いつも身なりや行動の目的が完全なものでいる必要があるのはなんで。

 

もっと人それぞれが自分の考えや感覚に正直に生きることができればいいのになと思う。まずはコントロール能力を意識して培うべきなのだと思うけどそれには割と限度もある、というのもそれは外部(環境)要因は個人では変えられないことがほとんどであるからだ。しかもそれは国の文化や古くからその土地に住む人間に定着している価値観や宗教なので割と厄介なんだよな。とはいえこのままにするわけにもいかないと思うので、人を束ねたりする政治家や人々のアイドル(偶像)的存在となりうる芸能人などの意識改革・そこからの表現活動/意思表明が重要になってくるのではないかと思う。それってまさにプロパガンダじゃない?きっとそう。身近なものでいい例はkemioかなあ。『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』はめちゃくちゃいい影響を与えうる本である気がする。みんな読んだ?

 

+++

 

言葉を知ると言葉に付随する意味をひとつの価値観として体にインストールすることになるので(たとえば「い・ぬ」という言葉を知ると、大抵ふさふさの体毛に覆われた1m弱の四足歩行の哺乳類という生物群に属する生き物が世界に存在することを知る。)、知らない言葉や流行りの言葉には警戒している節がある。そのなかのひとつに「マウントを取る」という言葉があります。

 

+++

 

はなしはもどるときっと自分に余裕がないから人の幸福を受け入れられなかったり意地悪したり人に当たったりするわけで、じゃあ自分に余裕がないっていうのはどういうとことなのかというと自己愛(/自己肯定感)が足りないというのが根本にあるのではないかとおもう。(だからわたしは自分の近いところにいる人には自己愛を持ってもらえるようにできるかぎりその人を肯定したりご機嫌を取ったりしている)でそこで厄介なのは私たちを取り巻く環境(国なのか地域なのか・・)において自己愛をもつことにネガティブなイメージが私たちの精神の土壌としてあることだと思う。それがセルフラブを邪魔してる。(あなたは悪くない。)その先に他者への不寛容が生まれてる。じゃあその自己愛にネガティブなイメージがついてしまったのはなんでなんだろうか?戦時中のか?儒教の考えからからの影響か?

 

などなどと自己肯定感について考えてるとこんなページを見つけて、日本と他国のこどもの自己肯定感の高低差が数値として如実に現れており、ああやっぱり。となる。悲しいのは、自己肯定感の低さは子どもの時からであるということ。せめて子どものうちだけは、自分はだれにもじゃまされることのない、ゆずることのない存在意義があるとおもっていてほしかった。と言えるほど私自身だいぶ小さい頃から自分のことが好きではなかった。二十四才のいまはだいぶん意識改革の甲斐がありだいぶんよくなってきている。

 

+++

 

f:id:aoeuaoa:20210410001830j:plain



 

生理現象

自分はどこに向かっとって自分とは一体。一体。一体。

 

生理がふつかこないくらいでこの二日間、もう閉経したとするじぶんのからだのことを思った。

閉経しとったら。どうなるん。私の心はいったい。たぶん、空っぽの空洞、喪失感みたいなものを感じる。空っぽの器。

空っぽの器には虚しさと希望どちらも抱えてると思う。

ないことの虚無。しかしないということはこれからなんでも入れれるわけであって、それはその状態は、限りない永遠の自由。ないことは同時にあることも意味する。意味する。

 

<<<

 

ミレーナという生理を止めてくれるという魔法のアイテムを知った。避妊リングというやつらしい。外国の小説とかを読んどったときにたしかに聞いたことあるかも、とおもった。でもどういうことなん、リングって、リングってどこにはめるんとこもっとったけど、どうやら卵巣から卵管のあのT字型をしておってべつに円環のかたちではないらしい。じゃあなんでリング。

そしてどうやら、それがやってくれるのは避妊だけではなく、生理という現象、膣から血が出るということ、あとPMSとか生理痛を和らげてくれるらしい。どゆこと。だって一ヶ月に一週間、膣から血が出るというのはいらん卵子とそれを守る胎盤という卵子のベッドを押し流すからじゃなかったんか。あの痛みとめんどくささはいらんかったんか。避妊リングというのをつけたらいらんくなるんかその現象。現象が?なんで。なんでなんでなんで。